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03/15 (mon)



 北野武『座頭市』を観たがあまり好きになれず。映画の文体が浅すぎる。意図的な浅さなのだろうが、ただ浅いだけでは意味がないのではないか。ただし微かにだけどある種の艶みたいなものも感じた。現代の“歪んだ”おとぎ話『パンチドランク・ラブ』は個人的に好き。アダム・サンドラーの抑圧ぶりが良い。が、一般ウケはありえないな。
 
 どうもやっぱり、積極コミュニケーション第一主義論者ばかりがウェブでは幅を利かせているように思う。まあウェブというものの性質上、そういう人達が最大勢力になるのは自然なことだし、それはそれでいいんだと思うんだけどね。
 でも、なんかプレッシャー感じるんだよ。ぼくはね。
 
 ぼくは作品の発表の場としてウェブを利用したい。でも、それだけじゃダメなんだ、という人がいる。もっと自分を開かなきゃ、と。そういう類のプレッシャーだ。
 これはたぶんぼくだけじゃあないと思う。いわゆる「社交的な」人達から、有形無形のプレッシャーを受けている人というのは、あんがいたくさんいるンじゃないか。だとしたらそれはちょっと問題だ。
 
 人間のすべてが社交的である必要はない。
 社会のありようがどうであろうと、人には選択の自由がある。人と交雑して生きてゆく生き方があれば、あえて深山に居を構えてたまに訪れる客をもてなすような生き方もある。
 
 そのどちらを、あるいは別の選択肢を、どう選ぶかは、本人が決めるべきだ。いや、決めないと決めてもいい。ずるずる流されて生きるのもものぐさ太郎を決めこむのも砂漠に旅立つのも自分を閉じこめるのもそれが己の心の深奥から観て“まっすぐ”な選択であればそれでいいはずである。(道義的な正しさはこの際、おいといて)
 
 むろん、たとえば、山深く棲むからといって偉いわけでもダメなわけでもないし、そこでふんぞり返ったり卑下したりしだしたら苦しくなるわけだけど。
 

03/13 (sat)



 この雑記についてだけど、ぼくはこれを誰かの心に届けようと思って書いているわけではない。むしろぼくは他人に論理的・言語的な形で真意を伝えたいとはあまり思っていない。そういう言葉の使い方は他人の心を縛り、自分の心を縛ると考えているので。ぼくが伝えたいのは真意は真意でももっと別のもので、だから小説を書く。小説として書く。
 
 公開や伝達を目的としない、自分のための文章なら日々書いている。論理的なことも、人並み程度には考えていると思う。でもぼくはそういう文章は決して公開したくない。死んだ後でも嫌だし死ぬときはだからほんものの雑記ノートは焼いて灰にしようと思っている。そのくらいなのでこちらの雑記に書くのはぼくの考えたことのほんの残りカスくらいである。
 
 なんでそんな残りカスを公開するのかというと、実をいうと、恥ずかしながら衒学的に書いてみたかったのだ。ほとんど意味のないことを意味のないように、薄くひらべったく、書いてみたかった。でも、やっぱぼくには向いてないみたい。ついつい重たいことを重ったるく書いてしまう。
 というか日頃あまり衒学的なことを考えないからなあ、ぼくは。み○ぎしさんにはなれないなあ。そもそも嘘がヘタクソだし。こんなことやっても意味ないわな。無駄だ無駄。
 
 とまあいちおう衒学的に書いたつもり(どこが?)
 恥ずかしい。ぜんぜんダメだ。
 

03/07 (sun)



「顔が腫れそうなほどに」甘い甘酒を飲む。最近の甘酒はたいていそうだが、いくらなんでも甘すぎるよ。口直しに何か買わせようという魂胆か、あるいは何かの陰謀か? 人類総甘党化とか。
 
 このところ「ほぼ日」に連載されている「イノセンスを語る」の中に、映画界の現状についての言及があった。つくる人の心に情熱が欠けているというのである。「昔は映画の数が少なく、また作ること自体が困難だったため、映画に関わる人々はそれに対する幻想を持てた。それが情熱につながった。だが今はいたるところに映像表現があふれている。デジタル技術の進歩で比較的簡単に映画が撮れる。なので幻想と共に情熱が失われる」。そういう内容だった。
 
 我田引水だが、同じ事がコミュニケーションについても言えると思う。遠隔地の人でも簡単に意志の疎通ができるようになり、また人は開放的であるべき、コミュニケーションこそ人であるという(人格の歴史性・重層性を無視した)誤った認識が世間に横行すると、「自分」を開示するためのことばが濫用され、結果、人の心に対する幻想は失われてしまう。ゆえに相手に対する想像力や敬意までもが先細る。
 無関心とはつまり幻想の欠如だろう。
 
 
04年 2月の雑記
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